木村 智映 「こだわり」その1

こだわり
というテーマでものを語る日が人生でいつか来るだろうと思い、私は10代の頃から準備してきました。

そもそもこだわりが何なのかはよく考えていませんでしたが、
それはカッコイイ人のものだと思っていました。

カッコイイ人とは
俳優、渡部篤郎の事を指します。
(私の中では。)

渋い大人の雰囲気を醸し出す渡部篤郎は、
こだわりのある男に違いない。
そんな妄想の元、また、いつか来るであろう語る日に備えて実施した
「こだわりのある男作戦」をご紹介します。

■こだわりのある戦法
渡部篤郎の様なアクション俳優は戦い方にこだわります。たぶん。

高校生の頃からお世話になる恩師の方針ということの方が大きいですが、
(動作の起こり)出端を捉える剣道、という事にこだわり続けました。
「立ち技で投げによる一本を狙う柔道」
とか
「あえて単打を狙うスタイルのイチロー
なんて言うのは、なんだかカッコイイじゃないですか。

これで勝てていたら、このこだわりはカッコイイものになったかもしれません。
私には最大の欠点がありました。
打ち込みが圧倒的に遅いのです。
出鼻を捉えて『今だ!』と思っているだけで、そのままバコッと面を打たれる。
その姿たるや、棒立ち男がノーガードで秒殺。

こだわりの負け方を追求した訳ではないので、この作戦は失敗です...。

■こだわりのあるバイク
渋い大人は乗り物にこだわります。木村調べ。

高校三年生の時、初めて購入した原付のスーパーカブ
カブはアジア諸国で根強い人気がありますので、社外品のパーツが大量に売られています。
驚く位に安いそれらのパーツは、高校生の私でも購入できるほど。
それはもう、フレーム以外は全て改造し尽くしました。
オールペン、ボアアップはもちろん、フロントディスクブレーキ可など...語るには十分なほど、時間をかけたこだわりようです。

友人達に見せて回るとこの様に言われました。
『趣味が悪い』
『意味が無い』
『元の方が良かった』
ネット上では、こだわりの改造カブを紹介するブログが沢山でてきます。
私がやったことはカッコイイ!と思った部分部分をいいとこ取りして組み上げられた継ぎ接ぎバイク。
センスの無い人間が中途半端はマネごとをすると悲惨なことになるのは、この時学びました...。


■こだわりのある髪型
髪は口ほどにものを言う。恐らく。

『大学生は、ふつー髪染めるべ!染めるならこだわってみるべ!』
見た目のこだわりは、語る上でもっとも分かりやすいはずです。
プロに頼めば、センスのない私でも安心してこだわる事ができます。

その当時個人的にブームだった、
つるの剛士の様な髪型にしてもらうべく美容院で注文しました。
少々派手に見えますが、彼からは落ち着いた大人の雰囲気が感じられ、こだわるのに最適な髪型だと判断しました。

出来上がった頭は、
金と明るい茶のツートン。
アシンメトリーでもわもわしたチャラいボリュームヘア。
美容師さん『あ、つるの剛士ってこっちじゃなかったっけ?もしかしたら上地雄輔と勘違いしたかも!』
確かに同じ頃に似たようなキャラでクイズ番組に出てましたが。
頭だけ渋谷系な男は、その後、そっと黒髪に戻しました...。




「こだわりのある男作戦」は、尽く失敗に終わりました。
(そもそも成功の定義が曖昧ですが。)

そこで出した結論はこうです。
『俺には無難な道しか無い』

いったい何をこんなに履き違えていたのでしょうか。

木村 智映 「プロフェッショナル」その2

技術者として
他人がやらないような事もやってのけて
世界的メーカーへと成長させた本田宗一郎氏。
「社会の為に、技術がある」
が信条だったといいます。

社長として
ある時から、他の競合メーカーへの対抗心が強まり
「これでビッグ3に追いつくぞ」
部下を鼓舞するためにこう言ったそうです。
しかしこれが信条に反しているという事で
社内の技術者から不満の声が上がったのでした。
「会社の為の、技術なのでしょうか」

間違いがあったかは分かりません。
しかし、プロフェッショナルというものへの
考え方の相違はあったのかもしれません。

満足した訳ではなく
次の一手を怠った訳でもない

会社の為に出来ることをやり
他社にないこだわりの技術を磨きあげる。
でもそれが現場の不満に繋がり
"引退"という決断に到らせたのです。





中高6年間
剣道において私は
「居着き」
から脱却する事は出来ませんでした。

居着くというものの正体が
一体何なのか分からなかったのです。
身体は動いていると思いました。
稽古ではこれ以上はないほど誰よりも動き続けました。
部員にもそれを求めて接しました。
「無駄に真面目で厳しい」
これが私への評価です。

でも勝負を制することが出来ないのです。
なぜなのか。

答えは単純です。
動いていませんでした。
「動き」というものを
そもそも勘違いしていたのです。

食事をしている様で
食事はできていないし
動いている様で
動いていない

勘違いに気が付かずに重ねた努力。
6年間変われなかったのも当然ですね。
どんなに続けようと
強くなれるはずがありません。

私は成長が無いまま、現役を引退しました。





"満足"

皆さんにはそんな経験はありますか?
もうそれ以上は必要ない程
満ち、そして、足りている。

それが本当の満足か、考えたことはありますか?
勘違いではいけないのです。

そうして
本当の満足を得られたとすると
次の瞬間には
居着いているのです。





歩み続けることがこれ程までに大変なのかと
気がついてしまったので

プロフェッショナルになるには
まだまだ時間がかかりそうです。

木村 智映 「プロフェッショナル」その1

お互いの剣先が交わり
一瞬時が止まったような感覚に包まれる。

次の瞬間には相手の竹刀が私の脳天を捉え
審判は相手の旗を勢いよく振り上げる。
「メン有り」

幾度となく繰り返された
私の負けパターン。

監督からはいつも、こう言われました。
「居着いたら負けだ」





少しでも成長できたらいいなという安易な考えから
20代前半はよく有名な経営者の本を読んでいました。

それらの本を読むと
目標達成と次の一手は同時に行う
様な事がよく書いてあります。


「人間、『これでいい』と満足したら進歩は止まる。成功した瞬間、目標を達成した瞬間に何を感じ、次の一歩をどう踏み出すかでその後の人生が決まるのである。」

これは本田宗一郎氏の言葉です。
説明不要ですが、HONDAというメーカーは
こういった考えを持った経営者の元で
世界的なシェアを誇る会社へと成長しました。

技術者でもあり
社長でもあった本田宗一郎氏。

晩年は、他社が見限った旧来の技術を
独自に発展させようと奮闘しました。
そのこだわりを捨てきれず
時代に取り残されていき
社内で不満の声が上がりました。

「あなたは社長なのか、技術者なのか」
苦楽を共にした副社長からの厳しい問いに
「自分は社長であるべきだ」
と、苦しくも答えたといいます。

確かに本田宗一郎氏は
紛うことなき日本を代表する経営者です。
私などが批判できる立場ではありません。

しかし、プロフェッショナルかと問われれば
皆さんはどう思われるでしょうか?





....話は大きく変わります。

私は幼稚園に通う前から
大食いの幼児
として親族間で有名でした。

同い年の子の何倍食べても満腹にならず
もはや何が満腹なのかも分からず
食べに食べていた。
と、両親から聞かされます。

食事の終わりは
・食卓から食べ物が無くなるか
・食べ過ぎて苦しいか
この2択でした。

もはや食事ではありません。
苦しみに変わるまでその作業は続きます。

しかし私自身はそれで満たされていたのです。
訂正します。
これが満たされたということなのだと
勘違いをしていたのです。

昔から母がこう言っていました。
「なぜだか、美味しいものは、少し食べただけでお腹いっぱいになるのよね」

当時の私には共感出来ませんでした。
満たされる方向性がまるで違うのですから。

行き先の違う行為をしているのは
満足する・しない以前の問題であり
この過ちに気が付かなければ
一生満たされないばかりか
身体は間違いなく壊れるでしょう。

数年、または数十年後、
その身体が豊かに満たされた状態なのか
苦しみ壊れていく状態なのか
を見れば
どちらが本当の食事なのか
明らかですよね。



井上 雄 「プロフェッショナル」 その2

報酬を受け取るために試合をし、求められたことをしなければいけないのが

「プロフェッショナル」


試合で普段の練習の成果をためすために、お金を払って試合に出るのが

「アマチュア



この差はスポーツのたとえだけではないと思います。




一つ参考になるものを調べたので、引用します。



「アマチュア」は仕事をしていない状態であり、「プロ」は仕事をしているのです。


「儲かっていないラーメン屋はプロではないのか?」



客が満足するラーメン屋は儲かるはずです。


味や店構えを含めたトータルで満足させられないから儲かっていないのです。


味だけが旨いのであれば、それはただのラーメン職人であり、ただのラーメンマニアです。



プロのラーメン屋は、味だけでなくラーメンを食べる空間も提供できるからプロであり、公のためになるのです。



結局プロはそれで飯を食う事ができるので、


「飯を食える」=「プロ」


と思われがちですが、そうではなく



「プロ」だから「飯を食える」ということなのです。



ラーメン屋の例えでしたが、

自分は今、トレーナーという仕事と通じていることだと思っています。



「プロフェッショナルは極めて高度な知識や技術に基づいた職能を有していなければならないということ。」


自分のパーソナルセッションの料金はお客様が納得できる、価値のあるものなのか?


お客様から求められているものを提供できているのだろうか?


それらを自分はできてるのだろうか


できていないのならプロとして仕事をするべきではないのではないかと悩む事があります。


あらためてプロとして仕事をするとはどういうことなのか、これを機に、今一度自分を見つめ直したいと思います。



井上 雄 「プロフェッショナル」 その1

よく聞くプロという言葉。


その言葉をどう捉えますか?



自分はプロと聞くと、そのカテゴリーに特化した高い知識、技術、経験を持っている人の事。

また、プロというイメージを強く持って、24時間365日、その道を極めるための日々を送っている方の事だと思います。



プロの対となる言葉でアマチュアという言葉もあります。


マチュアと聞くと全てにおいてのスキルがプロと比べると劣っており、プロほどの高い志を持ち合わせてないイメージでしょうか。



調べてみるとこういう言葉がありました。


「プロフェッショナルは極めて高度な知識や技術に基づいた職能を有していなければならない。」


簡単かもしれませんが、プロフェッショナルとはそういうことなのではないかと思います。



スポーツの世界にもプロとアマチュアが存在します。

その違いとはなんなのでしょうか?


自分自身、空手という武道をやってきました。スポーツとは言いがたいですが、空手にも大会などの競技が存在するため、試合というスポーツ要素が強いものを多く経験してきました。



自分の体験談として思ったプロとアマチュアの違い、



それは



まず報酬が発生するかしないか、

ここは大きいのではないかと思います。


プロスポーツ選手は報酬を得るために、競技を仕事として、お金の対価になるように取り組みます。


マチュア選手は、趣味・生きがいの一つとして、スポーツに取り組んでいる方がほとんどだと思っています。


プロは自分のこともそうですが、報酬が発生する試合を観に来るお客様、またはスポンサーなどのために試合をするということ。


マチュアは自分のためだけに試合をするということ。


報酬を受け取るために試合をし、求められたことをしなければいけないのが

「プロフェッショナル」


試合で普段の練習の成果をためすために、お金を払って試合に出るのが

「アマチュア」なのです。

木村 智映 「トレーナーとは?」その2

トレーナーの役割

フィットネスクラブやマイクロジムなどで

身体作り、健康増進などの指導をするのが

パーソナルトレーナーです。


プロスポーツや学生スポーツなどの

競技力向上を目的とした指導をするのが

スポーツトレーナーです。


また、犬のしつけや訓練を行うのが

ドッグトレーナーです。


いずれにしても

その目的に対しての指導者であるため

〇〇トレーナー

と冠のついた専門家は要求される知識や技術をクライアントに教える必要があります。


前後してしまいますが

私はパーソナルトレーナーであり

先に述べたものはその感想です。


パーソナルとは個人と訳せますが

個人とはしばしば以下のように考えられています。


"「社会は個人から成り立っており、個人があって初めて社会がある」とか、「個人は社会の産物であるから、まず社会があって個人はその中で育つ」"


どちらも、個人は社会と対比される関係であり


個人をみることが

パーソナルトレーナーだとすれば


その人の社会をみることも

パーソナルトレーナーの役割


ということになります。


社会をみる、とは例えば「健康」です。

パーソナルトレーニングを受けることで健康になれると謳うのなら、それは既に身体的な見方だけでは賄うことは出来ません。


パーソナルと名のつくトレーナーならば

要求される知識・技術は

非常に広範囲になる事から


逆に考えると、その役割は多岐にわたると考えられます。


いわゆる"未病"を改善する事で

医療費の削減に繋がるなら


パーソナルトレーナーの働きは

その一助にもなり得ます。


トレーナーとして私に出来ること


痛みをとるとか

姿勢を良くするとか

筋肉を大きくするなど


私が対応できる範囲では喜んでもらえることは沢山あります。


しかし、対応できない範囲は対応できません。

医学的に適応外という意味ではなく

分からないものは分からないし

分からないものが何なのかも分かりません。


トレーナーという立場にいることで

応えられない要望に直面したとき

応えられないものが何かを知ります。


その応えられないを解決するために勉強と研鑽を積み重ねていくことが

今私がトレーナーのスキルを上げる

最大のモチベーションです。


いつかもっとレベルを上げた時この投稿を読み返しても


「まだまだ甘いな」

と思っていられるように


「最も学ばなければいけない人」

すなわちトレーナーとして、学び続けていきます。


終わり

木村 智映 「トレーナーとは?」その1

私のトレーナー観

私にとってトレーナーという仕事は、

お金を稼ぐ手段だけではなく

生涯を通じた学びの仕事としても捉えています。


最も身近で誰にでも関係していて尚且つどこまでも奥深い身体。

その世界の指導者として名乗ってしまったからには、

自分の無力を感じざるを得ません。


以前の私を含め、多くの方々が自分の身体を知りません。

もちろん私も、身体を知ったと言えるようになるにはまだ何十年もかかります。

最後まで分からないかもしれません。


求められたことを教えきれなかった時、

自身の不足、不徳を思い知ります。

しかしそれを補う事で成長させて頂く。


「最も謙虚で、そして学び続けなければいけない人」


私自身に言い聞かせる意味で、トレーナーとはこうあるべきだと考えています。


トレーナーとトレーニング

私は

「コンディショニング」

「シェイプアップ」

を指導項目の1つとして掲げているため


・筋肉を付けて逞しい身体を作りたい

・綺麗に痩せてモデルさんの様になりたい

・老後も他人の世話にならずに動ける身体を維持したい


などの目的を持ったお客様の希望を叶える為にトレーニングを提供する事があります。


トレーナーである私自身が上手なトレーニングが出来ないと

他人に上手なトレーニングを教える事は出来ません。


しかし、いわゆる天才は違います。

先輩の言葉を借りれば、

本当に優秀な人は自身がやらずしても教える事が出来てしまうのです。


少なくとも私は天才の部類に入ることは決してないので

指導力向上の為に努力をするしか今の所手段はありません。


つまり、トレーナーの力量と

トレーニングの上手い下手は比例しないのです。


トレーニングが上手であれば

トレーナーが務まるかといえば

決してそうではない。


優秀なトレーナーだから

トレーニングが上手かといえば

決してそうでもない。


一つだけ言えるのは


トレーニングが上手な人は

トレーニングが上手だということ。


指導が上手なトレーナーは

指導が上手だということ。


トレーナーは、あくまでトレーナーなのです。